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コロナの副産物・音楽編

コロナの副産物・音楽編

 

1)自分の内側を表現しても、失うものは何も無いと思えた事

2)いろんな人の動画やソーシャルメディアを見たり読んだりする勉強時間(インプット)の時間が増えた

3)コンサート以外の表現方法(アウトプット)を実践する勉強時間が増えた

4)音楽高校時代の友達とまた繋がって、音楽を一緒にできるようになった。

5)今まで一緒にやったことのないミュージシャンともリモート演奏を体験できた。

6)[naomish.insideout』のページに音楽を載せた

7)YouTube にも同じものを[ Naomi Ozawa ]で載せた

8)音楽機材に投資をした

 

ディズニー映画の『INSIDE OUT』と言うタイトルを勝手に拝借し、私のFacebookとインスタのアドレスに使わせていただいたページがある。[naomish.insideout] 実は開設は一年以上も前で、色別にタイル状に嵌めた写真がカラーパレットシンボルで9色分並べて貼って、そのままになっていた。この映画のタイトル通り、心の中を素直に見つめて理解し、外に打ち明けてみようと言う試みのページ。一年前に開設する以前にも更に数年間何かそう言うサイトをを設けたいと思っていたが、その時は名前すら決まっていなかった。音楽と映像を繋げるアート。または詩と音楽と映像を繋げるアート。自分の心の変化から生まれてくる音。それを忘れないうちにスケッチして、その時の気持ちを書いておく。人類は99%同じ遺伝子なのだから、聞いてくれた人、見てくれた私以外の人たちにも心のしこりを吐きだすような、何か共有できる感覚があるに違いないと思った。

 

それは10歳、小学校の4年生の時音楽の授業中ペンタトニックを習った時だと思う。民族音楽に使われる五音階。そしてそれを使って曲を作って先生に見せてくださいと言われた。とにかくエンドレスで書いたことを覚えている。すごく楽しかった。それがひょっとしたら初めて作曲なのかも知れない。書いた内容は一つも覚えていないが。そして数年後作曲がコンプレックスになった瞬間がきた。当時中学校一年生の時、小学校の時の先生が進学時に私の紹介文に「ピアノを習っている」と書いたのだと思う。何も私のことを知らないはずの担任の先生(数学担当)がからすぐ指名されて、作ってこいと言われた。クラス対抗の学級か発表会があって、2−3声部の合唱曲を歌って競わされたのだ。もう、穴があったら入りたい、、、と言うほど格好悪い曲が出来上がった。と言うか、人様と共有するような曲を書いたはその時が初めてだったし、クラスメートはフツーに歌ってくれたし、褒め言葉もなければ貶し言葉もない。でも私は隣のクラスにはYAMAHAの音楽教室で作曲の勉強をしている子が作ったとにかくお洒落な素晴らしい曲と比べてしまった。練習に励む美しい隣のクラスの歌声が聞こえていた。出来たらあっちの曲を歌いたい。多分そのコンプレックスは自分だけの物で、親バカな親から見たら、もっとやって欲しいと思っていたらしい。私の方は、それから知れば知るほど世界には素晴らしい音楽が溢れていることを知り、ますます自信を失って行った。曲を創るのは放漫極まりないと。

 

10年後、ウイーンの先生が「僕以外の先代々のオーボエの教授はみんな作曲をした。これは前の前の先生の作ったエチュードだよ」と聞かされ、何冊も勉強した。代々吹き継がれているその練習曲の素晴らしさに感銘を受け、それから20年以上、全く曲を作ろうと言う考えを持たなくなった。

 

Vitamins が生まれたころ、父が「金子みすゞ」の詩集をくれて、またボソッと「今度は曲でも作ったら」と。子供と家にいる時間が増えた=空いている時間が増えたと言うわけではないのに。とにかく期待されたら真面目な私はやらなければならないと言う錯覚に陥って、それが出来ないとまたコンプレックスになる。何も知らないだけに簡単に言わないで欲しいと反撃したい気分だった。

 

VITAMINsが学校に行き始めたら、先生方の目線でこれまでに無い色んな感情を掻き立てられ、 その感情を音で吐き出してみたら、ちょっと楽になった。以前投げかけられた父の言葉を思い出した。できないコンプレックスが心のしこりになっていた作曲だ。全く時を同じくして友達が「ジャズを習い始めたんだけど、良い先生だから一緒にやらない?」と声をかけてくれた。これはチャンスかも!作曲を習いたいと思っていたけれど、ジャズのインプロゼーションは結局は作曲と演奏を同時にするわけだから、ジャズを習えば作曲の何か?!もわかるかも知れない。それに以前のリュウマチの経験上、クラシックピアノ曲はまた同じようになった場合、関節と筋肉の自由を奪われたら、自分が弾けて楽しいと思える曲はどんどん減って行くのはわかっていた。でもジャズなら、自分の手の機能で弾ける範囲で指一本ずつしか動かなくなっても、弾ける。

 

初めは小っ恥ずかしいと言う思いが強くて、即興では何一つフレーズも出てこないし、コードもなかなか解読に時間がかかった。どのリズムで、どのコードのフォームで出せばいいのかわからなかった。また練習の方法が全くわからなかった。「いつかセカンドネイチャーになるので、根気良く頑張ってね」と言われる先生の言葉を信じて。2−3年経った頃から、それが徐々に大きな氷のような蟠りが溶けるように、自分の感覚と知識、そして体が一緒に反応するようになっていった。

 

そのうちジャズのレッスンをしてもらう時間より、新しい自分の曲を聞いてもらう時間の方が増えて行った。そしてある日、「あなたの作った曲はあなたのものだから、アレコレ言えない。ジャズのセオリーも伝える事は伝えてしまったし、もうレッスンは、やめにしましょう」突然の破門?よく言えば卒業?を宣告されたのだ。その後忙しさにかまけて、おまけにレッスンもなくなり、曲はあまり書かなくなってしまった。でも何か一瞬無の時間が来ると、急にそこに音があるような感覚になって、メモだけはするようになった。いつかこれをまとめて、老後ゆっくり音にしようと。

 

コロナの副産物。いきなり予想外に自由な時間を与えられて、老後の生きがいを予定より10年以上も前に実践する機会に恵まれた。形になっていなかった物を形にして出す。アイデアのままで放っておいた「naomish.Insideout」は、そう言うわけでこの時期に音楽が載った。『失うものは何もない』という世に出す勇気と、無になる時間が増えたおかげで。心の奥を共有できれば嬉しい。それぞれの映像に使った色はチャクラの色であり、心の色でもある。