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チャレンジ

今まで自分の念頭になかったモノや概念を差し出されると、ワッっと飛びつきたくなる。多分自分の好奇心というセンサーが働く。そして、それを手に入れるための道のりを予測する。これにはロジックが働く。そしてまたそれを始めるかどうか思い倦ねる。怠惰な自分が勝てばやらない、、、情熱が勝てば、やろうとなる。

 

ストレスは基本的には避けた方がいいと思っている。健康の本にも載っている。ストレスは万病の元。いらないストレスはもちろんない方がいいと思っている。

でも、ストレスが全くないと、生きた心地がしないというのは私の問題。ちょっとチャレンジしているくらいが、人生面白いと思う。

 

あまり簡単に優しくされると居心地悪くなってしまうのが昔の自分だった。「自分に優しくしなさい」とヒーリングの本では言っているが、それをしたら成長が止まってしまうのではと恐れて、なかなかできなかった。人が大変な思いをしているのを知っていながら、自分が幸せになるのも、罪悪感を感じるような事もあった。でももう、昔の人の一生分生きたのだから、いい加減少しスピードダウンして、人生楽しみながら行こうと、昔の自分よりは、自分に優しくしているつもり。でも楽しむために、また負荷を求める。結局エンドレス。

 

そんなわけで、子供の頃からレッスンに通うのは大好きだった。人から何かを教わるというのは、いつも自分の知らない何かを見せてもらう事で、ドキドキした。ずっと今まで音楽と共に生きられたのは、これまでお世話になった先生方や友人たちのおかげだと思う。自分の知らない世界、分野のいろいろな音楽を見たり聞いたりするチャンスに恵まれ、コンサートに誘ってもらったり、常に新しい何かを体験させてくれた。

 

大人になって良かったと思うのは、いろんな人との出会いや経験からいろいろ学び、感情を剥き出しにせず、どうやったら心の叫びを上手く人に伝えられるかと言うテクニックを少なからず以前よりはストレスを感じないで出来る程度に体得したことにあると思う。若い頃は我慢しすぎるか、または遠慮しなさすぎるか、その辺の加減が難しかった。親子、先生と生徒、先輩と後輩、友人同士、恋人同士、それぞれの関係での距離感がなかなか難しかった。文化によっても差があるし、間違って受け取られる事もしばしば。今でも難しくないわけではないが、ストレス度が違う。小さなうちから大人びた子供達もいるが、私はその点は本当に幼かった。(今も油断すれば幼いまま)娘たちは弁が立つ。私はいつも言いくるめられ、彼女たちの思い通りにことが運ぶ事も多い。それは私がそれに反論する理由を持たない場合に限ってだが。私の場合は、自分の親を説得するのも感情が先走ってできなかった。最近の周りの子供たちは早いうちからプレゼンテーションを学び、色んなモノや言葉を使って伝えることの大切さを教えられていると思う。それはこのコンピューターや携帯電話を一人一台もつのが当たり前の今の時代、当然必要とされるスキルなのかもしれない。

 

来年度の9月の新学期に向けての学校教育方針で、アンケートが来た。全部バーチャルにするか、または状況によって、午前と午後で半々の人数に分けて、少人数の授業を導入するか、と言うアンケート。街ごと(市ごと)によって感染状況が異なるので、一斉にカリフォルニア州で統制とれないのも仕方がない。でも少し離れたオレンジカウンティー地区は、マスクなし、バーチャルなしの完全復帰を発表したばかりだった。子供にとっての学校はソーシャライズするために存在するわけだから(もちろん勉強もありだが)新学期後は復帰させてあげたかった。半日通えるようになって半日バーチャルになったとしても、この数ヶ月のように、何もないよりはマシだと思う。でもそうすると親たちの働き方改革がまた必要になる。小さな子供は保護者なしで留守番はできない。ロサンゼルスでも感染者の多いところは、実は低所得者の多く住む地区だったり、そこでは家庭で子供たちにオンラインの授業を受けさせてあげられる環境もないことが多い。本当に、これからどうなってしまうんだろう、、、。

 私は上に立ち判断する立場ではないので、決まったことに対して、何か変えいと、思う事はない。ただ自分の周りと子供たちの取り巻く与えられた環境で、何か自分に出来ることがないか考えた方がいいと思う。生きること、生きるために必要な術、体力と健康について、または表現の練習だったり、コミュニケーションの練習だったり。学校の学力とちょっと測り方が変わってくるだろうけれど、家庭が学校の役割を果たさなければならなくなった今、そして今までに体験したことのない時代を生き抜く力を、教えなければならない。

 

この時代、周りは変わり続けている。新しい事の連続だ。チャレンジなのだ。ストレスではなくワクワクと受け止める心の余裕を持てば、学べるはず。