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レコーディング

レコーディング

 

これは自分自身と正面から向かい合う、ミュージシャンとしては自分との戦いのようなもの。

 

恒例のサマーリサイタルと、ウインターリサイタル。教え始めて数十年、そして今年はコロナ禍で、レコーディンゴ通しての初のバーチャルリサイタルになった。

 

夏はピアノ以外のメロディー楽器(フルート、オーボエ)の生徒たちは皆1人でのソロ(無伴奏)。レパートリーは練習曲、または勉強中のソロを無伴奏で。お客さんもいないし、響きのないカーペットの部屋、響きすぎるウッドフロアの子。それぞれの自宅での録音。

 

今回はリモートの生徒たちは、伴奏の録音とソロの演奏を編集して、一緒にやっているように聞こえるようにした。うちにレコーディングに来られた子たちは、一緒ライブ録音をした。何時間かかるか分からないような上級者さんは、もちろん自宅で心ゆくまで録音に勤しんだ。ライブレコーディングを教室(私の自宅)でやる事になった子たちは、リハーサルの時間も少なく、まだ未熟な生徒たちにとっては、途方もないストレスになったと思う。

 

ストレスはよく言えばエキサイティング。日常を超えるスパイスのようなもの。これにも好き嫌いがもちろんあるわけだから、全員が楽しめるかというと、そうでもない。でも、パフォーミングアーツを勉強しているわけだから、パフォーマンスやコンサートは授業の一環として、是非経験して頂きたい。そしてそのスパイスに、是非触れていただきたい。

 

大学のオーデションや、大きなコンクールの予選もレコーディングが多いので、ある程度長く音楽を勉強したことがある人は経験済み。でも今回は、楽器を始めて数ヶ月の子から10数年になる子たちも合わせて、皆んなでレコーディングをした。始めてすぐの子たちにとっては、これがスタンダードになるのかもしれない。

普段、インスタやTicTok で慣れているからビデオだから緊張したりしないのではと思ったりもしたが、そんなはずもなく、「緊張はしないで」と言う方が無理。家では人が見ていると思って練習してほしい、人前では、自分の部屋にいると思って練習して欲しいというが、それも何十年やっていても慣れることはない。

ただ回数を重ねると、どこにいても誰が見ていても、一緒になってくるが。

 

几帳面な性格の子は、細かなところが気になって、先に進めない。

大雑把な子は、始めから終わりまで通せたら満足で、リズムとか音の間違いとか、音量の加減だとかも、全く気にならない様子。

またはリズムだけ気になる子、音の間違いだけ気になる子、強弱だけ気になる子、音程だけ気になる子。

 

それぞれ、成長段階だから仕方がない。客観性のある周りの人たちの話をどこまで聞いて、どれだけ本人が自覚出来るかというところから、ひとつずつ解決していくしかない。自覚出来ると言うことが一番大事。自覚できれなコントロールする練習に入れるが、自覚できなければ何をどうするのか分からなくなって、「できない、できない、できない」とドツボにハマる。

 

絡まって、上手く前に進めなくなったら、「どうやったらいいですか〜?」と泣きに入る子もいるから、「さあ、お手伝いしましょう」と言っても私が代わりに演奏してあげられるわけではないから、自分の経験談を話し、練習の仕方をアドバイスし、どうやって絡まりを解くか説明する。でもそれは1日で解決できる事もあるし、数年かけて解決できる事もある。そこはできる範囲で、とにかくその後は時間との戦い。

締め切りまでに、仕上げる。

 

それがたとえ、作品の理想的完成図の(楽譜に書かれているのは設計図のようなもの)100%から程遠いとしても、納得して受け入れるしかないのだ。その時できる、ベストを尽くすしかない。

 

簡単な曲だから完成させるのが簡単と言うわけではない。どんなシンプルな曲でも、どんな完成図を描くかは本人次第だから、他の人が見て簡単だと思っても、本人が難しかったら、それは難しい。もちろん実力以上の曲を選んでしまった、、、または練習不足だった、、、と気がついても、時間は帰ってこない。

 

でもそのジレンマは、幸い短時間て終わる。レコーディングが終わればもうそのジレンマからは解放される訳だ。ただ、そのレコーディングを終わると決めるのは自分だから、自分がこれ以上は無理。。。と思うところまでやるしかない。そしてその経験を自分で受け入れられれば成長の糧となり、それを受け入れられなければ、負の感情として残る。

 

人生において、何をやっても上手く行かない事がある。そういう時期がある。

きっとそれは、他の経験者の方から見たら、アドバイス可能なのかもしれないが、当人にとってみたら、何がおかしいのか自覚出来ていないのだから、変えようがない。

 

思春期の頃、中学校の先生が、「自分の顔を見るのが嫌いなときは、それは思春期を迎えている証拠だ」と言ってらした。自分の声を聞きたいくない時期、、、っていうのもある気がするし、自分の演奏を聴きたくないっていう時期もある。

周りがどんなに宥めても、効き目なし、というような時期。

 

昔仲良しのお友達に会った時、「どうしたの?元気ないね」と言われて、ハッとした事がある。『元気ないね』という言葉に洗脳されていただけなのかもしれないが、私はその時元気がないと言う自覚がなかった。鬱だと気がつかない鬱もあるのか、自分の気分を自覚できないなんて、そんな怖い事があっていいのか?

反対に「今日はなんだか楽しそうだね」と言われて、その自覚も無い事もあった。その言葉のお陰で、自分にとって大事な人が誰か分かった事もあった。

 

自分のことがわかって、「助けて!」と言えたら、もう解決したと同様。

 

他人は自分の鏡という。

ひとりだけれど、ひとりじゃない。

 

みんなで一緒に乗り切りましょう。